89
ジョフロワ・クトー
自由に、しかし孤独に
1860年代の末、ブラームスはウィーンでの生活に慣れ、音楽家としての確固
たるキャリアと厚い友情を享受していた。母は他界し、クララは依然として手の
届かぬ崇高な愛の対象だった。彼はすでに立派な作品群を誇っていたが、
《ピアノ協奏曲第1番》と《ドイツ・レクイエム》以外の大規模なオーケストラ作品
の発表は、さらに後のことになる。