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メナへム・プレスラー

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長いキャリアと人生を歩んできた貴方が、いま、モーツァルトのソナタ全曲録音に取り組

んでいる理由をお聞かせください。

私はつねづね、モーツァルトに対して大きな愛情を抱いてきました。しかしじつを言えば、

きっかけを与えてくれたのはフィラルモニー・ド・パリの演奏・舞台芸術部門のディレクター、

エマニュエル・オンドレです。私が90歳を記念してパリで行った演奏会のあとに、彼から全

曲録音を強く勧められたのです。最初は、途方もない挑戦になるだろうと怖じ気づきました

が、のちにこのアイデアに魅了されました。

それまで、折に触れてモーツァルトのピアノ・ソナタを演奏していましたが、自分のレパート

リーの一部になったという実感はありませんでした。ですから、録音に向けて一から学ばな

ければなりませんでした。何かを学び直すときには、以前に学んだことをすべて手放し、そ

の対象と再び“出会う”必要があります。歳を重ねたいま、私は以前よりも大胆になり、危険

を顧みずに演奏するようになりました。それは当然の成り行きです。経験を積んで吸収した

沢山の知識やアイデアが、演奏に反映されるのですから。この歳になって、私はさまざまな

物事を、より広い視野から、より深く把握できるようになりました。モーツァルトの音楽が魅惑

的であるのは、彼が非の打ちどころのない普遍的な言語で表現しているからですが、同時

にその“言語”は、生活にも根づいています。つまり、彼の日常や、彼自身の幸福あるいは

不幸な出来事について語っているわけです。モーツァルトの音楽においては、抽象化され

た純然たる美が、人間的な感情と隣り合わせにあります。