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フレデリック・ショパン / ポロニア
ショパンの変化に富んだ生活は、
1830
年
8
月末に決定的な打撃を受ける。ワルシャワの街
を燃え立たせた愛国者たちの蜂起がロシア軍によって制圧されたことを知った時、彼はシ
ュトゥットガルトにいた。ウィーンを“制覇”したショパンは、以後、亡命者として生きることにな
る。たとえこの時、母国に戻る自由が与えられていたとしても、彼は決してそれを望まなかっ
ただろう。ショパンはパリまで旅を続け、フランスを第二の母国に選んだ。彼の父が生粋の
フランス人で、ヴォージュ生まれだったことを思い起こそう。
初めは困難ばかりだった。ショパンはウィーンでの評判がパリにも届いていると信じていた。
リストやタールベルク(また彼の話題だ!)が君臨していたパリのサロンで、彼は全くの無名
だった。それでもショパンは、愛他主義のフランツ・リストの協力もあり、上流社会が牛耳る
パリの音楽界へのデビューを果たした。リストは、ショパンの詩的な感性に魅了されたと告
白している。
突然の叫び声…「マエストーソ」と記された《ポロネーズ 変ホ短調 作品
26-2
》の冒頭だ。低
音のざわめきが劇的な緊張感を導入するが、弓なりの旋律はこれを解決することが出来な
い。この暗い反抗心と自信に満ちた調子は、ワルシャワの悲劇にこだましている。しかしシ
ョパンの音楽が常にそうであるように、全ては歴史から個人へ、外部から内面へ、政治的な
出来事から感覚的なものへと向かっていく。その密度の高い表現は、単に糾弾の表明にと
どまることなく、深い内面の描写を伴っている。