

フィリップ・ビアンコーニ
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曲集』で、彼の芸術の真髄を見せたと思います。簡明さに最重点がおかれる一方、
すばらしくバラエティに富んだ曲が並んでいます。ムード音楽的な曲もあれば、
瞑想的なゆっくりした曲や、全くユーモアにあふれた曲もあります。古風な語法で
書かれた『亜麻色の髪の娘』や『ヒースの茂る荒れ地』など、昔に逆戻りしたような
ものもあります。反対に、『霧』、『妖精はよい踊り子』、『花火』、さらに『練習曲集』
につながる『交代する三度』など、遠い未来を見つめているものもあります。第二
集は、『映像』第二集で試みられた実験性を引き継ぎ、より具象的でより取っ付き
やすい第一集よりもずっと進歩しています。実際、第一集のほうが聴衆には受け
がいいのです。第二集では『カノープ』が特筆に値します。この曲はあらゆる音楽
で最も美しいものの中に入ると思います。おそらく死への、そして確実に虚栄へ
の黙考でしょう。この曲が終わると、すべてが言い尽くされたように感じます。音
楽をつくるきっかけとなる「口実」はすでになくなり、ドビュッシーはそのすぐ後、
『交代する三度』で完全な抽象に至るのです。『前奏曲集』全体を華やかに閉じ
る終曲『花火』は、一体何調に属しているのかよくわからない「非調」で書かれて
おり、ピアニスティックな可能性を存分に発揮した見事な曲となっています。
『前奏曲集』第一集と第二集でピアノ語法はどのように変化しているので
しょうか。
P.B.
ドビュッシーの音楽でとても面白いのは、それぞれの曲の間にある響きを
発見できることでしょう。先ほど、私にとってとても重要な『映像』第二集と、それが
『前奏曲集』第二集につながっているということに触れましたが、第一集にある
『帆』は、第二集にあってもおかしくありませんね。第二集のほとんどすべてが
3
段の五線譜で書かれているのに対し、第一集は
2
段の「シンプルな」楽譜になっ