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ターリヒ弦楽四重奏団
ウィーンのアルタリア社から初版が出版されるや、オーケストラ版は大成功をおさめ
た。確かに当時、ハイドンは見事な作品を生み出していた。この曲の楽譜が出版されたの
は、
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曲のパリ交響曲の出版と同時期だった。パリ交響曲は「ロージュ・オランピック」ホ
ールで演奏会を開催していたオニー伯爵が高額の代金を支払って注文したものだった。
『十字架上のキリストの最後の
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つの言葉』の出版に引き続き、ハイドンはすぐさ
ま同年
1787
年に弦楽四重奏曲用にこれを編曲した。そして、ピアノ独奏用への編曲
に同意したのである。
1794
年にロンドンでオーケストラと弦楽四重奏曲のふたつの
版を演奏会にかけた。大成功であった。
翌
1795
年、ハイドンはパッサウでのあるコンサートの席上、オーケストラ版にテキ
ストが加えられたものを聞いた。興味を示したもののその結果にに満足しなかった
ハイドンは、ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵
(1773-1803)
のテキストに
基づいて、新しい声楽パートを作曲した。スヴィーテン男爵は後にオラトリオ『天
地創造』と『四季』のテキストを執筆する人物である。
オリジナルのオーケストラ版には―歴史の皮肉というべきか、
1959
年になってやっ
と出版されたのであるが―最終的にオラトリオとなる版の作曲が進むにつれて、大
幅に変更が加えられた。オラトリオ版は数年間、それ以前のの各種の器楽版ほどの
人気を博さなかった。