LDV121

46 トランスクリプション&パラフレーズ ノアックは机の上で、ピアノを違うふうに響かせ、ピアノを絶えず生まれ変わらせようと努める。 ドラムや官能的に擦れる和音を模倣してピアノをビッグバンドに変貌させたかと思えば、自ら の脳内を巡る種々の世界のスパイスをピアノに添え、大編成の交響楽団に変貌させてみせる。 編曲作品はイリュージョンである。それは、ある特定の“音楽の瞬間”を聞き手に想起させる。 しかし実のところ、それは別の“音楽の瞬間”である。編曲は、原曲の表現の流れをはらむ“翻 訳”でもあるが、今やそこには、新たな沃土——たとえばノアックのピアノ——の文化的刺激が ふんだんに散りばめられている。 ノアックが、あれやこれやと楽器を模倣することはなく、他者の音楽を書き直すこともない。彼 は、ただ自身のピアノが違うふうに鳴るのを聞いてみたいのだ。書くことによって得られる強烈 な喜びを胸に、ノアックは、作曲家と演奏家の狭間にあるグレーゾーンで塒(とぐろ)を巻きな がら、創造の天才と音楽の渡し守を対立させる二元論のバランスを再調整していく。 ノアックは、幾度も編曲する。過ぎゆく時を見つめながら。人生の終わりが——若者の人生と はいえ——否応なく近づいてくるのを見つめながら。つまり彼を支配しているのは、生への“渇 望”である。彼は、心に浮かぶ奇跡を、出会いを、価値を、むさぼるように見つめ、それらを—— 演奏する前に——五線譜上に固定する。なぜならそれらは、もう二度と戻って来ることがない かもしれないからである。

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