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ジョフロワ・クトー / メス国立管弦楽団 27 当初、第1楽章〈マエストーソ〉が一種の“ピアノ付きコンチェルト·グロッソ”であると解説す る者たちもいたが、この分類はてんで的を射ていない!グレン·グールドは“ブラームスはお 嫌い?N'aimez-vous pas Brahms?”と題した随筆の中で、この音楽が“奇異”に感じられ るのは、“その激情に燃える生をまるまる作品に注ぎ込む不完全で突出した想像力が、古典 派のしきたりに反発”しているからだと述べている。この明らかな“ぎこちなさ”から生じるも のこそ、シェーンベルクがブラームスの音楽の中にみた“曖昧さ”だ――そしてシェーンベル クいわく、ブラームスはこの曖昧さを超越した。ブラームスの非順応的な態度は、ある種の アカデミズムと手を結びながら、シェーンベルクが言うところの“進歩主義者ブラームス”の すべてを形作っている。彼らにとって人生は、過去との断絶ではなく、伝統の昇華をつうじ て豊かになるのである。 出だしの音の爆発とともに、曲はただちに北方の壮大なバラードに浸る。原初的な暴風さ ながらの冒頭では、ティンパニに支えられた弦楽器が、凄まじい呼び声を上げる。音楽が描 く広大なフレスコ画において、恐れ、野性的な力、そして優しさが、幻想的な叙情性に包ま れながら一体となる。この“音による聖書的スペクタクル”が聞かせる実に喚起力に富んだト リルは、のちにピアノによって再び奏でられる。ベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア·ソ ナタ》を連想させる、力強く重心の低いトリルは、海に向かって割れよと叫ぶモーセを描写 しているかのようだ。導入後しばらくしてから、ようやくはじまるピアノ独奏は、荒波の上を 冷静に歩いていく賢人を想わせる。冒頭の音の洪水と著しい対照をなすこのセクションは、 諸々の主題の要素を奏でる前に、それらを落ち着かせようとしているように聞こえる。第1 楽章では終始、ピアノは――主導権を握っているとはいえ――オーケストラの流動的で厚 い響きの中に組み入れられている。ここで、協奏曲において何よりも重んじられてきた独奏 と管弦楽の対立構造が崩れ落ちているのだ。

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