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フローリアン・ノアック 31 言ってみれば、それは大先輩を慕う一人の作曲家が手がけた、友愛に満ち た曲集です。リャプノフは、自身の声を介してリストの練習曲集を“継続”させ ることに全身全霊を捧げました。その意味においてリャプノフは、リストが《 練習曲》で理想とした超越性から逸れていないと思います。リストの超越性 とは、桁外れに演奏困難なものを、この上なく稀有な詩情へと変換させるこ とであり、これはもっぱら、極限のピアノ・テクニックを通じて実現されます。 しかしいっぽうで2人の練習曲集は、“実は似ていない”とも言えます。2つの曲集がもつ共 通点が、2人の相違を浮き彫りにしてもいるからです。確かにリャプノフは、リストの多くの技 法を――とりわけピアノ書法に関して――借用していますが、実際に聞こえてくる音楽や、 音楽からにじみ出ている個性は、似て非なるものです。それは、早くも第一曲目に指摘でき ます。まばゆいばかりの〈前奏曲〉(リスト)と、はかなげな〈子守歌〉(リャプノフ)に、どんな共 通点があると言うのでしょう?しかも両者の練習曲集には、この2曲と対をなすような曲は 見当たりません。おそらくはリャプノフの方が、より内向的な性格の持ち主であったがゆえ に、彼の《練習曲》には、〈荒々しき狩〉の“Presto furioso(” 急速に荒れ狂って)や、〈マゼッ パ〉が描く大迫力の騎行に相当するような表現はありません。他方リャプノフは、リストが扱 わなかった民族的な要素を、曲集の至るところに散りばめています。〈テレク川〉と〈レズギン カ〉はコーカサス、〈鐘〉と〈叙事詩〉はロシア正教、そしてリストを追想する〈エレジー〉はジ プシーの音楽を、それぞれ喚起します。

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