LDV88-9
39 ダヴィド·グリマル バッハは、この曲集の自筆譜に“Sei Solo”と記しています。“Sei”はイタリア語で“6つの” を意味しますが、その場合には通常、複数形の“Sol(i 独奏曲)”が続きます。そのため研究 者たちの中には、“Sei Solo”を“6つの独奏曲”と解する代わりに、“Tu sei solo(君は独 り)”の縮約形と解釈する人もいます。あなたのお考えをお聞かせください。 ダヴィド・グリマル(以下同様):まさにそれが、この曲集がはらむパワーであり懸案でもあり ます。演奏していると、あらゆる実存的で宇宙的な問いをバッハから投げかけられているよ うに感じるとともに、孤独をも味わうからです。孤独感なしに、はかり知れないもの・無限な るものの存在を意識することはできません。この絶対性と向き合う感覚は、私にとってます ます乗り越えがたいものになりつつあります。私は、《無伴奏チェロ組曲》や他の鍵盤作品よ りもなおいっそう、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》(以下、《ソナタとパ ルティータ》)において、この感覚を強く抱きます。なぜなら、いずれの曲も――とりわけソナ タの比類のないスケールをもつフーガは――、ヴァイオリンの楽器としての特性から鑑みて、 極めて演奏困難だからです。 本質的に多声楽器ではないヴァイオリンにとって、この曲集は夢物語の次元 にあり、実現不可能なことを企てているのです。
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