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フローリアン・ノアック 41 《年老いた祖母の話 op.31》が表す含蓄に富んだ郷愁を、プロコフィエフのアメリカ亡命と機 械的に関連づけるのは、罪深い早道だと言わざるをえない。 それでもひとびとは、プロコフィエフが深刻な意気消沈に陥った日に綴った言葉を執拗に 振りかざす——“私の記憶からほとんど消えてしまった思い出もあれば、決して消えることの ない思い出もある”。通常《年老いた祖母の話》が喚起するのは、足を引きずりながら雌鶏 たちの間を歩く老婆の姿、といったところだろう。三角形に折ったスカーフを頭に被った老 婆は、豊作を願って金口イオアン(金口の聖ヨハネ)を信仰している……。しかしこのイメー ジは、ロシア人たちの童話に対する執心を軽視している。ちなみに、ロシアのあらゆる階層 の大衆文化に浸透している童話は、子供たちを楽しませる代わりに、彼らに恐怖心を植え 付けている。 《年老いた祖母の話》は、母国から遠く離れた地にいる者の純真な郷愁など微塵も表現し ていない。そこでは甘く苦い追憶が、《展覧会の絵》(オスティナートが堂々と〈ビドロ〉を横 目で見る)と、小さなバレリーナたち(短調の細やかな動きの中でシューズを引きずる)の間 を縫って、颯爽と進んでいく。しかしながら、その明らかに優美な光景は見せかけにすぎ ない。なぜならこの作品は、苛酷な状況を示唆しているからだ。“一台の荷馬車が田舎を 進んでおり、重い石で出来た車輪が揺れ動いています。この酷な進行——押しつぶされる 小道——こそ、私たちが《年老いた祖母の話》の中に聞くべきものなのです。”そのとき郷愁 は、あたかも特段に心を打ち砕く感情ではないかのように扱われる。

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