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40 プロコフィエフ_ 束の間の幻影 まさしく《ピアノ·ソナタ第6番イ長調 op.82》において、この打楽器性が中心的な役割を演じ ている。鍵盤を“叩く”という行為そのものが、何らかの純然たる暴力性と結びついている。 そして私たちは、すでにこの行為がはらんでいる感情の性質を突きとめたい衝動にから れ、そこにすすんで意味を与えようとする。この上なく激烈な音は、あたかも怒りを表してい るように聞こえる。私たちは難なく、その“怒り”を理解することができるだろう。しかしそれら は全て、想像の産物でしかない。 “演奏家は、時とともに経験を重ねながら、どちらかと言えば無 味乾燥な解釈に惹かれていきます。私たちは物語性から遠ざか り、楽譜のシンプルな読解に向かっていくのです。” 芸術作品は、受け手の想像や感情移入から完全に自由になれるのだろうか?作曲家·ピア ニストで音楽批評家のギイ·サクルは、ノアックを大いに感嘆させた逸話を紹介している。カ ラバッジョが『ゴリアテの首を持つダヴィデ』で描いた、血が滴るゴリアテの生首は、カラバッ ジョの自画像であるという。一方、生首を手にした上半身裸のあどけない若者のモデルは、 カラバッジョの助手であると考えられている。絵画の鑑賞者は、このようなナラティヴ(物語 的)な要素を意識して想像力をかきたてられるとき、『旧約聖書』のことも「サムエル記」のこ ともペリシテ人たちのことさえも忘れ、いわば“代替のリアリティ”とその成り行きだけを見て いる。つまりは、通常そうあるべきだと考えられている画家と若き助手の職業的な関係に背 く、同性愛の存在を見ていることになる。これは音楽にも当てはまる。血の通っていない音 符に、僅かでも人間の生の刻印を押せば、作品の意味は歪められてしまうからだ。
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