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39 クレマン・ルフェーヴル 私たちは、スクリャービンの音楽の一体どこで、彼と対面できるのでしょうか? 私の持論では、真の意味で彼に出会えることは決してありません。絶対的なるものを絶えず 追い求めたスクリャービンは、私には不断の変化の中にいるように感じられるからです。彼 の一作一作が、次作に強く呼びかけています。それゆえに私は、果たして彼に達成感を得る 瞬間はあったのだろうかと自問してしまいます。むろん、それがスクリャービンの音楽の魅力 なのですが…。高みの力によって導かれ、ただ一つの方向へ進むよう駆り立てられていた彼 は、瞑想者ではありません。彼は、すでに自分が創り上げたものに耽(ふけ)ることはありま せんし、ましてや他の方向へ進んでみたり、他の道筋を取ってみたりすることはありません。 彼は、自分がどこへ行きたいのか知っており、絶えず克己と超越への飽くなき欲求を抱きな がら、一心不乱に、より遠くへと自らの道を進んでいきます。スクリャービンの作品を演奏し ていると、まるでスナップ写真に収められたかのような、はかない一瞬に出くわすことがあり ます。それは、《焔に向かって》へと——あの崇高な状態へと・彼が取り憑かれた「法悦」へ と——至る長い道程の途上にある、束の間です。スクリャービンの音楽は絶えず動いていま す。そのあまりに頻繁な移ろいゆえに、私たちが彼の思考に身を浸し、彼の思考を完全に理 解することは不可能です。私としては、そこに自己の大部分を投じ、何かをとらえようとする ほかありません。 スクリャービンの音楽は、そのような積極的な姿勢を奏者に要求しますし、他の いかなる音楽よりも、弾き手に演奏者としての役割を直視させます。それは、演 奏者を極限まで追い込む音楽なのです。

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