LDV111-2

65 ゲイリー・ホフマン | ダヴィッド・セリグ ホフマンは、楽譜への純然たる敬意を伝えるべく演奏する。しかしまた、伝統に疑問を呈す る必要性にかられて演奏する。敬服は隷従と同義ではないからだ。彼がLa Dolce Volta から発表したアルバムが、それを物語っている。舞台の中央へと歩いていくこと、音波を拾 うマイクロフォンに囲まれることは、すでに思考をめぐらせたことを意味し、自身にいかなる 熟慮をも禁じなかったことを意味する。たとえそれが、最新の流行に逆らうことになるとし ても……。教師としてのホフマンは、すでに定着しているレパートリーであれ、現代音楽であ れ、その作品に疑心と好奇心を抱いてリスクを冒す欲求を、若い演奏家たちに植え付ける。 なぜ私たちは、多くの往年の名演奏家たちの演奏に、それが“完璧”ではないと知りながら、 これほどまでに惹かれるのだろう? 1662年製のニコラ·アマティ——かつてレナード·ロー ズが所有し、今やあらゆる場所でホフマンに寄り添う名器——の弦に弓が触れる前に、ホフ マンは、心の中で歌い出さずにはいられない。 ホフマンは、15歳でロンドンのウィグモア·ホールでデビューして以来、ある理想のために演 奏してきた——提案…自身の提案を携えて作曲家に仕えるという理想のために。その場合、 パブロ·カザルスやアルトゥール·ルービンシュタインがいる天を仰ぎながら、自分自身に嘘を つくことは不可能である。ホフマンは、鍵盤に向かって舞台上を歩くルービンシュタインの 姿を目にしたときのことを思い返す。それはホフマンのこれまでの人生で、もっとも感動的な 瞬間の一つだった。あのとき、空間を進んでいくルービンシュタインの身体はシンプルに動い た。その動きは彼の存在の真髄と化し、えも言われぬものの前奏となった。音楽を生み出す のは、音と音のあいだに在る隠れ場、すなわち休符/沈黙である。音楽は贅言(ぜいげん)を 要することなく、人生の悲しみを慰す。 ホフマンにとって、弦の振動と言葉のあいだに区別はない……。全ては、快い混沌と素晴ら しい意外性でしかないのだ。人生と同じように。

RkJQdWJsaXNoZXIy OTAwOTQx