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ベアトリス·べリュ 43 苦悩に取りつかれた彼女は、遠くからゆっくりと近づいてくる男の姿に気づいていない。背 中で両手を組み、やや気詰まりな様子で彼女の方へ向かってくる。妥協を許さぬ頑固一徹 な人間らしく、やや険しい顔つきだが、その黒い瞳は、彼女を見つめると燃えるような情熱 を輝かせる。彼がどれだけ気持ちを押し隠そうとしても、まなざしがすべてを物語るのだ。彼 女を欲する熱烈な想いが、心ならずも彼のまわりで波打っている。彼女は驚き、男に目を向 けた。兄アレクサンダーが、休暇を共にしようと彼をパイエルバッハに招いた。この若者はア レクサンダーの作曲の弟子の一人で、チェロ弾きでもあった。兄はオーケストラ“ポリュヒュ ムニア”のリハーサルで彼と出会った。彼女は大きな笑みを浮かべながら、そのときの兄の 言葉を思い返した。“彼にはチェロの素質はないよ”――とはいえ、彼が前途有望で大胆不 敵な作曲家であることが少しずつわかってきた。彼女自身は、パイエルバッハに来る少し前 に、あるサロンで彼と顔見知りになった。ウィーンが誇るそうそうたる前衛芸術家たちに囲 まれても、彼の平素の謹厳さはまったくぶれていないようだった。彼女はしかし、リヒャルト· シュペヒトが彼についてこう話しているのを聞いた。“あの風変わりで控えめな男は、ウィー ンの若手芸術家集団を率いる、もっとも魅惑的で、もっとも型破りで、もっとも手に負えな い人物の一人だ”と。彼が目の前で立ち止まると、氷の中に隠された炎のイメージが、彼女 の心を稲妻のように貫いた。彼女は身震いした。彼は寡黙だ。一帯の野原を優しくなでる微 風と、二人の足元で揺れる水が、彼に代わって語りはじめる。
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