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48 今夜は映画館で そのような純化されたコントラストは、フェリーニの『カサノバ』でも浮き彫りにされます。 ニーノ・ロータの《サーカス・ワルツ》は、言わばフェリーニの性的妄想を反映するととも に、ドナルド・サザーランドが演じる主人公の未熟で利己的な性格を際立たせます。この映 画——従ってこの音楽——において、人間性と“機械的な”非人間性はどのようなバランス で表現されているのでしょうか? しばし話題が脇に逸れますが、エットーレ・スコラの映画『ヴァレンヌの夜』でマルチェロ・マ ストロヤンニが演じる年配のカサノバは、この世の美にいまだ心をかき乱されるロマンティッ クな男として描かれています。それは『我が生涯の物語(カサノバ回想録)』において、見事な 筆遣いで人生を振り返ったカサノバのイメージそのものです。二つの映画は、イタリア映画の 精髄、そして好対照をなす二人の映画監督の特質を端的に示しています。フェリーニと彼に 仕えた音の魔術師ニーノ・ロータに話題を戻しましょう。フェリーニが提示したカサノバは、 彼が出会う全登場人物から例外なく嫌われます。こう言ってよければ、“嫌な奴”です。この映 画には、たとえばヴュルテンベルクで奏でられる巨大なオルガンの場面や、カサノバが機械 仕掛けの女性人形と踊る最終場面など、途轍もないシーンがあります。些細なものが壮観さ を帯びる一方で、美の権化が現れるのです!

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